国葬を考える。国葬とは…

「国葬」と政府の口から発表されてから、横須賀市の図書館に駆け込み、検索してヒットしたのが『玉砕と国葬-1943年5月の思想』櫻本富雄著(1984年8月15日開窓社)であった。国葬が表題になっているものは他にない。
国葬を知る手がかりの唯一の1冊だ。唯一の1冊だが、返却期限が過ぎてしまった(謝罪)!


本著の構成は、大きく分けて二つである。南方戦線で1943年(昭和18年)5月21日に山本司令長官の戦死を大本営が発表してから国葬に至るまでの国内の空気の形成と実行、防戦一方になった孤島のアッツ島守備隊が、同年5月23日の軍司令官名の電文とその後の補給されることもなく孤立して軍本部から見殺しにされ全滅していくのを「玉砕」と大本営が発表し、沖縄戦までこの「嚆矢のパターン」で日本軍の戦闘を象徴されていくまでの空気の形成の2つである。
8月15日の敗戦からを日本全体は「戦後」としながらも、「戦後」には「もう一つのニュアンス」があると著者はあとがきで述べている。例えば「中国残留孤児」(「中国遺留児」と「中国愛児遺棄親」の対概念がある。)の子どもにとっては、戦争がまだ続行中であり、それを「歴史の連続性意識の戦後」と「歴史の断続性意識の戦後」とすると、中国残留孤児にとっては、現在の時点も前者の「歴史の連続性意識の戦後」だと言っているのだ。

日本の戦後思想の原形は、戦前の1943年5月下旬から6月上旬に生じた二つの事件によって、報道に関わった文化人らによる日本全体の空気によって作られていった。行われている戦争の黙示録と敵愾心に盲いて、それに気づく人がいなかった上に、戦後、悔恨から己を悔い改めたのはごく一部で、その戦後思想の特色は、無責任に尽きると著者は嘆いた。

本書が発行された1984年の時点で、その思想を著者は「わたしたちを、どのような未来へと展開させるのか」と懸念している。「反省を忘れた戦後の日本人は、戦争責任を曖昧にしたまま」、敗戦の日から、「何が始まり、なにが終わってしまったか」と著者は嘆いた。

「原敬が1921年、東京駅で暗殺された後、国葬が叫ばれたが、その妻は毅然と拒絶したのだ。死んだら平等!と。」
(佐⾼信さんの⾔葉、現在に伝わった。)写真中央 佐高信氏

「玉砕」の思想ではなく、アッツ島で捕虜になった佐藤国夫の体験(『アッツ虜囚記』1978年7月)を日本軍の真実の検証としていれば、その後の沖縄本土戦まで長引かなかったかもしれない。または、原爆を二つも投下されるまでには至らなかったかもしれない。大本営の思想が世論の形成になるまで、一役も二役も買った文化人や報道人らの無責任さは、戦争責任を放棄し、2022年の現代にも、連続性意識の戦後とは乖離した歴史の積み重ねをしようとしている。国葬は、「断続性意識の戦後」の体現であり、そこには、都合よく見放された民衆の行き場のない苦しみを当時、「玉砕」という言葉で断続性意識に押し込めているだけである。戦後の反省があるならば、国葬という発想はもう生まれない。日本の国葬は、諸外国とはその性格を異にする。「歴史の連続性意識」の戦後77年であるからである。